医学書院の「ケアをひらく」シリーズは新刊がでると必ずチェックしている。
去年の発売以来、さまざまな賞も受賞した本作、きっちり、きっぱり学術書なのだが、「ガクジュツショ」として異例の大ヒットをした。
京大院卒ハカセで臨床心理士の著者が、沖縄のデイケアでの4年間を、笑いと涙と大どんでん返しの驚愕のラストまでを書き綴る大スペクタル巨編(帯より)

わたしは一年のほとんどをケアルームで身体に触れるケアを行っている。
心理学を専攻したが「こころにこころで向かう」にはあまりに無防備であると、(つまり自信がなかった)早々に「身体からのアプローチ」に切り替えた。
だが「身体性」にアプローチするには実は「心理」が先にくる。というより、何らかの不調や生きづらさを抱えて来室される方にとって、「こころ」と「からだ」は未分化だ。
だから、触れるケアの前には1時間の時間をかけて一見たわいもない話しに興じながら、こころの動きを丁寧に捉え、身体の動きとともに、ラヴィングに、あらゆるものに平等に漂うような注意を向ける。
これらはまるで、「なにもなされていない」かのようで、その実、身体を含む「多層でのケア」が行われている。 「doing」と「being」と「ケア」と「セラピー」、単純な対比ではないが、「ただ居る」ことの本質的な意味を考えるひとつの視点を提供してくれている。

尊敬する精神科医の中井久夫先生のこの言葉。
触れるケアを行う方なら、うんうん、とうなずくであろう。 
「中井久夫は心と体をわけておくのは、それが便利だからという理由に過ぎないと言っていた。
そうすればコントロールできるからだ。
分けてある程度コントロールしてくれている近代科学はデカルトが、心と体を分割してくれたことが出発点と言われる。
心と体が分割されているのは余裕があるとき。 「〈こころ〉と〈からだ〉と言う言葉を両方ともやめて、なんでもよいが「こらだ」で両方あらわすとおかしなことになる。」「看護のための精神医学第二版12ー13』」 
「バランスを欠き、コントロールを失ったこらだは、ほかのこらだと一緒にいることで落ち着きを取り戻すからだ。」 

ラストの大どんでん返しは、「居る」ケアを成り立たせるための社会的資源や制度や、なんともモゾモゾする、つまり、国家資格としての心理職にまつわるあれこれがギュッと濃縮されている。

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