思いもかけず、お墓を建てました。
わたしも夫も、「千の風に」なろうね、
なんて話ていたのに、です。

ずっと小さかったころ、祖父がお墓を建立しました。
まだ元気だった祖父が、ニコニコして
とても嬉しそうに自分が入るお墓を
眺めている姿を、不思議な思いで見つめていました。
お彼岸、お盆、必ずお墓に出かけ、足が悪くなっても
見晴らしの良い山にあるお墓に連れて行って欲しいと
言っていました。

あのお墓に入るということは
もうこの世にはいない、ということなのに、
「死」が怖かったわたしには
祖父の嬉しそうな表情を理解することがその当時はできませんでした。

河合隼雄さんが書籍などでたとえに出される、
民俗学者の柳田國男の「先祖の話」が頭に浮かんできます。

とても気持ちの良い高齢者が柳田さんの
近所に住んでいたそうです。
会って、挨拶を交わすだけで非常に心が休まるこの老人に

どうしてこんなに会うだけで気持ちよく
心が休まるのか、柳田がわけを尋ねます。

するとその方は
「わたしは死んでからどこに行くかちゃんとわかっていますから、
心は安心しているのです」

というのです。

「では死んだらどこにいくのですか」

と柳田が尋ねると、

「私は死んだらご先祖になるのです。
ご先祖というものになることが
自分の行く先がわかっておるから、安心しているのです」

と答えたといいます。

今回夫と一緒に建立したお墓は
わたしが幼いころ電車にのって
里山をハイキングした大好きなお寺にご縁をいただきました。

小さな小さなお墓で
将来ここにわたしが入るかどうか分からないのにもかかわらず、
お墓を建てることが思いもかけず、
嬉しさと喜びに満ちていたことが
なんともいえず、おかしく、ありがたく、
不思議な経験でした。

真夏の建立式でお坊様のお経を聞きながら、
いつか、わたしがこのお墓に入るときのこと、
子どもたちや、大切な人が、
尋ねてきてくれる場面などに思いをめぐらし、
しみじみと幸せな気持ちになったのでした。








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