田口ランディさんの昨日のブログが「ホスピスに行ってきた」
というものだったので、
今日もまた緩和ケアについて書いてみようと思います。

まずは緩和ケアって?という方のために、簡単にご説明
しますね。
わたしは現在、2つの市中病院内にある緩和ケアで
アロマセラピーのトリートメントをさせていただいています。
緩和ケアやホスピスなどいろんな言葉がありますが
宗教が背景にあるとホスピス、
そうでない場合は緩和ケアと呼ばれるようです。
どちらも終末医療を行う施設です。
ターミナル施設などとも呼ばれます。

がんの末期を迎えた患者さんに対して、
最後のときを迎えるまでの間、痛みや不快感を緩和して、
なるべく自分らしく生きられるように
「からだ」と「こころ」の痛みへの治療やケアをすること、
患者とその家族の価値観を大切にすること、
単なる延命よりもコミュニケーションを通した
こころのケアを行うことが大切であると
認識しているのが緩和医療といえると思います。

ランディさんも書かれていますが、ここで重視されるのは

治る、治らないという次元の問題ではなく、
クオリティオブライフ(QOL)を高め、
残されたいのちが、豊かで安らぎに満ちたものなることです。
そこではドクターや看護師、医療従事者、
わたしたちのような代替療法家などがチームを組み、
質の高いケアを提供しようと試行錯誤を重ねています。

緩和ケア科の部長であるK先生の緩和ケアについての
講座に何回か出席したことがあります。
講座が始まって最初にわたしたちに
このような質問をされました。
「ここいいる皆さんの中で、もし自分あるいは身内の方が
ガンになったとき、緩和ケアに入りたいという方は
手をあげてください」と。
講座に集まっていたのは、20代から40代の女性が約30人。
なんと手をあげたのはほんのひとりふたりと、わずかでした。

《いのちの質を高め、残された時間を安らぎにみちてすごせる》
緩和ケアに行きたいとなんとなく考えていましたが、
いざ、この質問を受けたとき、わたしは手を上げることができませんでした。

それはなぜか。
まずは想像力の不足からか、
そのようなことが我が身に起こると考えにくいこと。
そして、一番大きく頭に浮かんだのは、
「まだ何か方法があるなら、すべてを試してみたい、あきらめたくない」
という思いでした。

田口さんはこのように書いています。
>でも、私はものすごく天の邪鬼だからかもしれないけれど、
>なんか違うと思った。ここに来たらもう死を受容した
>いい子ちゃんにならないといけないみたいで、
>息苦しい感じがした。いいじゃんか最後まで運命を呪って
>大騒ぎして死んだって。死ぬのは自分なのだ。
>死を受容しない人は人間が完成していない……みたいな雰囲気って変。
>なにか人を型にはめてしまうところを感じ、
>どうもしっくりこないのだった。

わたしも天邪鬼なのでこの気持ちが良く分かります。
みんなが一緒のことをするのって気持ち悪い、
型にはめられたくない気持ち。

でも、実際の緩和ケアはそんなものではないと感じています。
みんながみんな、死を受容したいい子ちゃんではありません。
本当にいろんな方がいます。
いろんな人生を生きてこられたのですから、当然です。
今まで、トリートメントをさせていただいた患者さんは
それぞれが本当に個性的な方ばかりでした。

ずっと病室の窓から空を眺め、「空しかみえない、こわいわ」と
肩を落としてつぶやく方。
ほんとうに緩和ケアなの?と思うほど、元気で明るく
世話を焼き、いつも笑顔の女性の患者さんが
トリートメントで気持ちが緩むと、大泣きをして
怖さや悲しさを訴えてこられます。
なぜ、こんなに自分の死を真正面から見つめて、強いのだろう、
と感動を覚える方もいらっしゃいます。
でも、たとえ落ち込んでいても、泣いていても、
笑っていても、がんばっていても、あきらめていても、
いつもおおぜいのお友達に囲まれている方も、
神聖な尊い輝きを放っておられます。
千差万別のこの輝きがいのちなのか、と思うことがあります。

お世話になっている、緩和ケア科のH先生の言葉のように、
「人は生きたように死ぬ」のだろうか、
そしてどう生きるのかは各人の完全なる自由に任せられていて、
死は必ずいつか、その旅の途中にやってくるのかもしれません。
とても深いテーマです。
何度も考えてまた問いかけていきたいと考えています。
みなさんならH先生の問いかけに
どう答えますか。



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